|
江國さんのことなど
とうに亡くなっている作家ばかりが好きで、現代小説を
めったに読まない私が、唯一手にとるのが、江國香織。
「きらきらひかる」から10年、愛読している。
私が好きなもので、周囲のどよめきを起こさずかつ女の子っぽかった
趣味は、この人くらいではないだろうか。
みゆきさんとならんで、私の精神衛生に欠かせないのが江國さんの本。
聞きたい、読みたいときと、そうでないときの差の激しさも一緒。
はまってしまうと、その世界から抜け出せない、そんな所も。
しかし、必要と思うときはかならず、同時ではない。
アルバム「グッバイガール」がお気に入りという江國さんは、
中島みゆきの歌をたびたび著作で登場させている。
「落下する夕方」では、主人公が「きつね狩りの歌」を口ずさむ。
エッセイ「いくつもの週末」では結婚についての話で「彼女の人生」が
引用されている。
「とるにたらないものもの」では、ベットで夫に「野うさぎのように」
を歌ってきかせる話がある。
どんなに熱烈な恋愛をしていても、醜い感情描写を避け、淡々とした
日常が過ぎていくかのような江國作品は、一見、恋愛のどろどろした部分
を避けているかのようだ。しかしそんな日常の中に、ふとした狂気をはらんでいて
何かの深淵を見てしまったような怖さは、どこかみゆきさんの世界とつながる。
江國さんの小説は、私にとってはエアポケットのようなもの。
何が起きるわけでもないストーリー。
そこに流れる空気は独特で、ゆったりとしていて心地いい。
覚えるくらいに読んでいるのに、ふっとその一文が頭に浮かんで、
あらためてその世界に浸りたくなる。
どこからでも、どこまででも、ちょっと手にとるだけで話に入り込めて
その文章に触れるだけで、心身共にとてもやすらぐ。
ほっとくと「息はきれぎれ それでも走れ」を地で行って、
目標第一、ともすると、日々の生活という回路を忘れてしまう私に
みゆきさんとは違った次元で、忘れていたことを思い起こさせる。
人間は、何かを成し遂げるためだけに生きているわけではない。
森鴎外の「青年」にこんな一節がある。
「小學校の門を潜ってからといふものは、一生懸命に此學校時代を
駆け抜けようとする。その先には、生活があると思ふのである。
學校といふものを離れて職業にありつくと、その職業を為し遂げてしまはう
とする。その先には生活があると思ふのである。
そしてその先には生活はないのである。」
人間の生きる道には、人生と生活というくくりがあるという。
生活は毎日の明け暮れ、人生はもっと観念的・抽象的なもの。
主婦としてずっと家族のために働いてきて、四、五十代になって
突然「こんなはずでは」と思い始めるような例は、人生に目覚めたといえる。
だからといって、私のように、しょっちゅう人生って?幸福って?と考えているのも
幸せとはいえない思考回路だ。そんな時間がすでに、生活の一部なのだ。
そう、私は、地道なようでいて地に足がついていないんですよね(反省)
みゆきさんの歌を聞くと、日常のどんな瞬間も、ドラマなのだなと思う。
江國さんの本を読むと、日々の暮らしっていいものだなと思う。
意識が過去や未来にばかり飛んで、今がお留守になる私を、現実的にしてくれる人たち。
追記。上記は2000年くらいまでの作品。

|