元気ですよ。
「24時着0時発」が初演された2004年初春。
そのときからひとつ、はじまった物語は、
2006年の「00時」、終わりを遂げ、また新たな始まりをむかえた。
みゆきさんとの関係も、新たなものとなりそうだ。
もっともこれは、事後的な話。
いつのまにか私は、「デフレ・スパイラル」なるものから脱していたようだ。
いつのまにか。
以前の状況、境遇からすれば、ありえない僥倖。
そう思えることばかり。
それはひたすらみゆきさんと、加えて此処をも含む、新たな出会いの賜物。
しかし、生きるということ。
それは己の愚かさと闘うこと。
なにをどんなに手にしても、けっして満足はしない
満ちたりている自覚があってさえ、不平不満は尽きない。
事実、それなりの問題はいつだって、ある。
けれどひとつ、これだけは言える。人の支えとなるのは
そしてきっかけとなるのは、人でしかない。
みゆきさんの歌を愛してきた私は
さみしかっただけ、愛してきたのかもしれないと、
はじめて、思った。
陳腐な言いぐさなのだろうけれど、そう認めざるをえない。
人は、さみしいだけ、中島みゆきにひかれるんだ。
その一方、なんてささいなことで、人は満たされてしまうんだろうか。
あの歌の数々は、強く生きていく歌だけれど、
同時に同じくらいに強く、激しく愛を求める歌なのだ。
ひとりなのは、人間の根源。
あまりの寂寥感を感じると、吐き気がする。
同じく泣きすぎても、吐き気がする。
けれど、女なんて、現金なものだ。
「女ははだしで歩かないものよ」
これは、宇野千代の言葉。
笑わせるじゃないか私ときたら。
さっきまで抱き合っていた人のことなど
中島みゆきを目にすればすっかり忘れ
またちがう人の前には
見に行くことにさえ、興味をなくす。
中島みゆきは常々、「不幸なときに限って聞きたくなる」
そんな言われ方をする。
それはなにより、身をもって感じていること。
悲しいときには目がくらむ。
悲しいときに中島みゆきは優しい。
人は薄情である。現金である。
本当にそうなのだろうか。
それは、なぜなのだろうか。
人の行く手に安住の地は、行き着く先は、あるのだろうか。
どこまで行ったら。
どこまで幸せを感じたら。
そのとき中島みゆきをきいて、何を思うだろう。
その歌に励まされなくとも、生きていけるのだろうか。
そんな、果てない愚問。
もしかしたら、今は、ひとつの区切り、ページの終焉には
ふさわしいときなのかもしれない。
けれど、もしよろしければ
この先の軌跡にもうしばし、気長におつきあい願いたい。
私にとっては、燃えて散るのが花、夢で咲くのが恋。
おっと、歌手違い。
真夜中にひとり、大きな鍋を煮立て
どろどろした赤黒い液体をかき混ぜて、なぜか時折ほくそ笑む、
中島みゆきを聞くひとときとは、
そんな行為の代償なのです。
人と人との心のパズルが恋愛だとしたら
私のこのピースは、中島みゆきを聞いて聞いて、
ひとりにどっぷりつかって育まれてきたものだ。
そこにはまるピースには、やっぱりなにか
奥深いところで共鳴するものがあるはず。
たとえ表層が、おだやかであっても。
いえ、おだやかであればあるほど。
久しぶりに聞いた、みゆきさんの生の声。オールナイトニッポン。
お定まりと知りつつも、
「ララバイシンガー」をバックに、急にシリアスになったラストの言葉に
涙がこぼれてしまった。
私も元気ですよ。
必ずまた、会いに行きます。
東京のどこかより。

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