20年目の浮気


告白しよう。
私は今、恋をしている。

彼女のことは、なんとなく知っていた。
けれど全く関心がなかった。
それが、一ヶ月前。
こいつぁあ ほんものだ。
彼女を目の当たりにして、そう確信してからというもの
彼女なしではいられない日々。
毎日毎夜、彼女を欲している。

わかっている。私には、長年連れ添ったあの人がいる。
最近は、長い倦怠期と言ってもよいだろうか、
別れの予感さえ、しなくもない日々。
けれど、ふいにそのふところに抱かれると
その包容力の広さに、思いもかけずくつろぎ
あらためて身を委ねてしまう存在。

でも、でもね、彼女の若さには勝てないんだ。
私、年上の人とばかりつきあってきたでしょ。
だからかな、まだ未完成の、発展途上の、
定まらない評価の、不安定さやシンパシー
いろんなものが相まって、惹かれてゆくの。

もはやファン暦20年を数える私。
その間巷では、「みゆきファン好み」と囁かれる幾人もが、
どこか遠いところで、現れては消えていった。
ここへきて、音楽との出会い。楽しみ。興奮。
みゆきさんと出会った頃の気持ちに帰らせてくれた人。
小谷美紗子。

10年ほど前にその名を聞いたきり、という方も多いのではないだろうか。
重厚な作風と安定した歌唱で
その筋では当時、中島みゆきの後継との呼び声も高かった人。

中島みゆきファンが好むアーティスト(若手)といえば
Coccoや鬼束、ちょっと昔の椎名林檎なんかだろうか。
私にとってはどれも食指が動かず、
聞いてきた音楽は星の数ほどあるけれど
聞き込むに耐えうるものは中島みゆき以外にはなく
誰かの何か1曲を好きになっても、所詮それだけ、
すぐに忘れてしまうのが常であった。

気にかかる程度だった、彼女の出るライブに足を運んだのは、
ほんの気軽な気持ちから。
どんなもんか、生で見てやろう。

7月末日のオシャレタウン代官山。
ライブハウス「晴れたら空に豆まいて」にて。
ワンドリンク付き。
出演;小谷美紗子、タテタカコ、遠藤賢司。
ライブ会場に行くこと自体が初めてであった。
開場前にもぜんぜん行列してないし
ハコちっちゃいし、みんななんか食って飲んでるし
ステージ間近の席も超空いてるんですけど
アーティスト近っ、さわれるんちゃうみたいな
驚きばかりで、それらはすべて、みゆきさんしか
追っかけたことのない私の世間知らずぶり、そしてみゆきさんの
泣く子も黙るキャリアと人気を物語るのであった。

おまちかねの登場。
いつものみゆきさんが米粒大ならば、今夜の彼女は等身大。
ピアノ弾き語りの、顔が見える真ん前にて鑑賞。

よかった。
CDより、よかった。
今、歌声を聞いて、そう思える歌手がどれだけいるであろうか。
歌は上手い。
それ以上に、伝えようとする気持ちがその表現力でまっすぐに届けられる。
ああすごい、と素直に思った。
さすがに、みゆきさんのおどろおどろしさで鍛えあげた私の
感性をゆさぶり、泣かすことは無理であったがね。
あー、ご本人が泣いてました。歌いながら。
涙のひとすじさえも、しっかりと確認できる距離でした。
自分が感動する前に泣かれちゃうと、アレだけどね。
まあ、それだけ真摯なのです。
トークも、飾らないという言葉がぴったりで、
だからって自然体、ナチュラルってわけでもなく
詰まりまくりのそれは、
普段語りそのまんまなんだろうなと思った。

ちなみに見た感じは、ごくごくふつーのねーちゃんである。
近所のスーパーとかによくいそうな。
道で会ったら気づかないであろう。
おしゃれに気を使ってるわけでも、目立つメークでもなく
失敬な話だが、オーラや存在感も感じなく
歌いだしてもそんな感じで、CDを聞いていてもいつも思うのだが
「この声」を出しているのが「この人」という事実に
新鮮な違和感を覚える。その姿を見るたびに。
きっと、ルックス云々よりも、その人そのものがかわいいというタイプの人なのである。
彼女のラブソングは、私生活がそのままなのだそう。
生けるシンガーソングライター小谷美紗子。
歌っている姿を興味しんしんに、目前であまりにもガン見していたら
ずーっと目をそらさずに歌われてしまった。
笑いながら。
すごいタマである。(どっちが)
恋に落ちた。
この瞬間、ついていってもいいと思った。

小谷美紗子のいちばんの魅力は、声である。
いわゆる美声ではないが、
ときに繊細、可愛らしく、ときにハスキー、野太くたくましく
ストレートに訴えかけてくる。
その歌い方の癖が、時には鼻につくほどに特徴的なのだが、
それさえも快感になってしまう。
曲の合間のフェイクが格好良くて
ちょっと舌足らずな所、英語が超豪風発音なのがツボである。

正直、この人は天才だと思う。奇才と言ってもいい。

こんな才能を目の当たりにすると
こういう人を天才と呼ぶのか、と納得する。
だとすると、みゆきさんは、天才ではない。
常人の気持ちがわかるところ
常人に寄り添えるところ
自らを客観視できるところ
作品をコントロールできるところ
99%、天才に近いのかもしれないが
魅せる努力ができるところ、それに気づくところが
その所以である。
音楽を創り出す、産みの苦しみの次元が
ふたりは異なっているように思える。
なぜなら、みゆきさんは、巫女だから。触媒だから。
何かに自分を空け渡し、キャッチするのが
上手いのではないだろうか。
彼女はもっと主体的で動物的。
ほとばしるなにかが降りてきても、
それは突き詰めれば自分であり、少なくとも、あくまでも人間なのだ。


しかし上手いからって、必ずしも売れはしない今の時代。
各駅にひとつあるような、近所のCDショップでは
CDが、置かれてもいない。
だからってレンタルしに行ったって、同じこと。
ちょっと大きい店に行ったら、ようやくベスト版だけあって
名札なんてなくて、「お」のところにごっちゃになっている。
どれだけ「おだに」を探して、小田和正、織田裕二にイラついたことか。
ちなみにその次は、音速ライン、である。敗北。
しかも、レコード会社・インディーズ移籍などが絡んでいるのか
初期のCDは、全く見かけない。
コンプリートしようと思ったら、渋谷TUTAYAくらいの
大きなレンタルショップでしか見つからなかった。

これにはびっくりした。
みゆきさんなんて、どれだけ辺鄙な地方に行ってもちゃんと棚がある。
売れているのが本物とは限らないが
本物は売れると、私は信じている。
巨大資本は強いけれど、本物が浸透する力は
それを見分ける力は、人の中にあると思うから。
すごく若い時、シュプレヒコールの波通りすぎていって
世界中が誰も彼も偉そうな奴に思えてきて
みんないいことしてやがんのになとぼやいても
中島みゆきが流行るなら、世の中の人はまだまだ
信用できるんじゃないかと思っていた。
これにはびっくりした。
こんなにいいと思える人が、こんなにも売れてないのかと。

私は彼女と同世代なので、
そのデビューや活動歴は、高卒後東京に出てきて
20代を費やしていく自分の歴史とも、リンクしている。
いくらでも彼女に触れる機会はあっただろう。
けれど、そうしたことはなかった。

みゆきさんが、自分の親世代であることから
デビュー時からのその姿を見ることは到底叶わず
全盛期も知らず、もっと早くに生まれていたらと
これまで何度思ったか知れないが
同じ時を生きていたって、同じ空気を吸っていたって
知らなければ、関心がなければ
そのことは、なんの意味もなさない。
気持ちが一緒じゃなければ、withにはなれないのだ。
だとすると、出会い、その意味に気づくことって
なんて素敵なのだろう。
機が熟すとはいうけれど、今だから出会えた。
その今が大切なのだ。
それがわかったとき、ようやくこう言える。

同じ時代に生まれてくれてありがとう


これは、一時の気の迷い、恋物語かもしれないし
私の本気かもしれない。
けれど、こんなにも音楽を聞く喜び、夢中になる楽しさを
みゆきさんを知ったあの頃と同じ気持ちにさせてくれた
出会いに乾杯。

私は、みゆきさんを肴に一杯やるのが大好きで
みゆきさんの歌は、私にとって、お酒同然。
だけど彼女の歌に、酒は似合わない。

少しの野心を持ちながら、平穏を味わって、感謝する
この瞬間が幸せで、それは儚く、けれど永遠に続くのは
自分しだいと知った今
私は、酔わないままで暗闇の中、目を閉じて
ひたすらその声に耳を傾ける。

それは、日常の中の一服にも似た、コーヒーの味。
その香りで、知らず知らずこわばった体をほぐし
一緒になにもかも歌いとばしてくれる、そんな人。