しあわせの在りか


山椒魚は、繁殖することこれ即ち、幸福につながるのだそうだ。
(「山椒魚戦争」より)

たしかにそうだ。
明日何をしたらいいのか、
自分の存在意義を考えながら暮らしている生き物なんて、
いないだろう。
人間のほかには。

あしたチーターかなんかに食われたら、それでおわり。
そんないちガゼルの顛末なんか、誰にも知れない。
そうして残された骨は、風に吹きさらされて、からからになってゆくのだろう。
そのうち少しずつ風に削られ、雨に打たれてかたちさえ無くなっていく。

なんて自由なのだろう。
人ひとり死んだなら、そういうわけにはいかない、人間の事情。
残された人の。
有名人がライオンにかじられたからといって、それが何十年も売りになるほどの、
下世話な人間の事情。

なまじ自由なのだ。
今夜の食べものも、明日着る服も。自分の行く末も。
生き方も、仕事も、本当にしなきゃならないことなんて、何もない。
使命感だって、規制だってとらわれだって、心底いやならば
どうやってでも逃げることができる、今の時代。

けれど逃げようとはしない。
その、理性ゆえなのか。
明日は、あるようで、ない。
自由も、あるようで、ない。

そこにあるのは、瀕して死ぬことは決してない、人間ならではの日常。

「フロンティア」にこんな一節がある。

フロンティア フロンティア 
地平をみつけるために
誰にも守られず 誰にも祀られず
寂しさも優しさも ゆく手を塞げない

私たちのゆく手を塞ぐもの。
それは、いわゆるしがらみなのかもしれない。
あるいは愛情という名の鎖なのか。
けれど、それらを超えて、孤独も、悲しみさえも請け負って、
行き得たその地が、しあわせの地平なのかもしれない。

探しても探しても探しても
どこにもないかもしれない
はじめからなかったとわかるだけかもしれない

探しても×3
よっぽど探してます。

見つからない見つからない見つからない
そんなフレーズもありましたが
よっぽど見つからない

けれどそれでも、そうだとしても、もし旅に出たのなら、
探そうと思えたことが、しあわせだったと
私は信じていたいと思う。